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港町下関考

“港町下関考”は「みなと山口新聞」で平成12年1月からスタートした連載です

No.1〜No.18|No.19〜No.36|No.37〜No.54|No.55〜No.72|No.73〜No.88完
19.港の「あっ痛ぇ!」 20.三セク解説 21.関門マックス
22.相対評価 23.たまの贅沢 24.親に感謝
25.縁起担ぎ 26.意外な連鎖 27.統計の妙
28.いざ海響館へ 29.下関、下関・・・・ 30.港の華
31.風見鶏 32.ネタ枯れの時 33.言葉の輸入
34.ラッキー・カレー 35.憧れの関門連絡船 36.紫煙の先
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19.港の「あっ痛ぇ!」
  人から叩かれた時、或いは自分の失敗に気づいた時、つい口にする「あっ痛ぇ!」。叩かれることが増えたのか、それとも失敗が増えたのか。最近、この言葉を聞くことが多い。
  気がつけば日本が他国に大きく後れをとってしまった情報化。何とかせねばと、日本中が「あっ痛ぇ!」・・かくしてITの大合唱となったのである。
  このITへの取り組みの遅れは港湾の分野も同様である。とりわけ、港湾の場合には、行政の坩堝(るつぼ)と呼ばれるほど多くの行政機関が関わっている。外国貿易に関連して財務省の税関、法務省の入国管理、厚生省の食品検査と検疫、農林水産省の動植物検疫がある。  これらは略して「CIQ」と呼ぶ。国土交通省関係では、海上交通管制などを行う海上保安部、各種の事業者の監督や船舶検査などを行う海運部局、そして港湾の建設運営に関わる港湾部局がある。更に警察には水上警察署がある。
  これらの多様な行政サービスと倉庫、港湾運送などの多様な民間事業者が港湾サービスを構成している。そしてこれらの官民のサービスが有機的に連携して初めて港湾が機能する。
  この港湾の特性は、港湾の利用者にとって煩雑な多数の手続きを行う必要があることに他ならない。このため、手続きの円滑化が港湾関係者の課題となっていた。
  このような課題に対して、諸外国の港湾ではITを活用した効率的な港湾サービスが既に提供されている。もし、この状況を放置すれば日本の港湾が諸外国に遅れをとってしまう。これが日本の港の「あっ痛ぇ!」である。
  そして、港湾サービスの情報化の先進事例として位置づけられているのがシンガポール港のEDI(エレクトリック・データ・インターチェインジ)である。これは、各種申請手続きを電子化し、関係機関が共有、活用するもので、手続きの迅速化、簡素化ばかりでなく、荷役作業の効率や確実性の向上にも役立っている。
  日本の港湾は、シンガポール港の例にならい、やはり「港湾EDI」と称する手続きの電子化を進めており、下関港でも本年からEDIが本格稼動する。
  なお、気の利いた職員が、EDIに合わせてホーム・ページを開設したので、読者諸兄には是非ご覧いただきたい。http://www.shimonoseki-port.com
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20.三セク解説
  知性で知られる哲学者に美貌を誇る女優が結婚を迫って、「貴方の知性と私の美貌を兼ね備えたすばらしい子供が出来るはず・・」と言った。すると評論家は、「私の容姿と貴女の知性を備えた子供が出来たら大変・・」と断ったという。
  今、下関港ではアルカポート開発に関連して三セクの是非が話題となっている。この三セク、「第三セクター」の略語である。その意味するところは、官と民を第一、第二として、官と民のいずれにも属さない第三の部門ということであり、概して官民共同出資の法人を「第三セクター」と呼ぶ。
  三セクが脚光を浴びたのは、中曽根政権時のいわゆる「民活法」からであろう。ちょうど、国鉄民営化など官業の非効率性が国民的課題となっていた頃である。官の仕事に民の資本と効率的な経営ノウハウを結合させれば素晴らしい公的サービスが実現できる・・との考え方が基調となって、民活事業の実施主体としての三セクが数多く設立された。
  港湾分野でも、ウォーター・フロント開発による賑わいづくりや旅客施設の利便向上などの要請があり、これらが民活プロジェクトとして数多く進められた。
  つまり、官だけが作る味気ない椅子とトイレだけの旅客ターミナルよりも、レストラン、喫茶店、土産物店に併設されたロビーの方が旅客にとって便利で快適なのは当たり前。そんなターミナル・ビルなら民間にも出資してもらい、また、運営に参画してもらえば良い・・といった考えである。
  その後、貿易黒字対策のための輸入促進やリゾート開発による地域振興などにも、民活の枠組みが適用され今日に至っている。
  そして、バブルの崩壊などの経済環境の激変の中で、三セク事業にも経営破綻の事例が生じ、そのつけを最後には地方自治体が被ることが問題となっている。
  しかし、全ての三セクが破綻している訳でもなく、また、経営責任について事前に明確な取り決めを行えば回避できる問題であったことも事実である。要するに三セクの善し悪しではなく、個別具体の内容を如何に吟味するか・・が重要なのである。
  官民の良さと強みが相乗効果を発揮するのか、それとも互いの悪さと弱さの寄せ集めとするのか
  ・・三セクのあり方を考える時、かのバーナード・ショーの話を思い出す。
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21.関門マックス
  世界の二大大運河といえば、スエズ運河とパナマ運河である。
  大西洋からインド洋への船の近道。地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、エジプトの砂漠に流れる川のようで、ちょうど信濃川河口部程度の幅があり、そこに数多くの船が航行する。その船の往来は関門海峡の船の往来にも似ている。
  一方、大西洋と太平洋の船の近道。パナマ運河は船を山越えさせるため、運河の中央に位置する湖の水を使って船を上げ下ろしする閘門(こうもん)式運河である。我が拙文で詳細に説明することは困難を極めるが、要するにダムに浮かぶ船を、水の出し入れで上下させるという仕組となっている。実際、何万トンもの船舶が一度に十メートル以上も持ち上げられる様子は、理屈で分かっていても奇怪な印象を与える。
  パナマ運河には、船を上げ下げする機構があるために、通航できる船の大きさに限界がある。つまり、ダムの出入り口(閘門)を通り抜けられなければパナマ運河は通れない。このため、パナマ運河を通れる最大幅の船を「パナマックス」と呼ぶ。そして、世界を股に掛けるコンテナ船の大きさはパナマックスが限界と考えられていた。
  ところが近年、コンテナを二段積みにして鉄道で北米大陸を横断する方式(ダブル・スタック・トレーン)が採られるようなり、パナマックスを超える超大型コンテナ船が登場するようになった。
  さて、関門海峡を通る船舶を眺めると、九千トンクラスの船が多いことに気づく。これは関門海峡の水深とか航路幅といった物理的制約のせいではない。一万トン以上の大型船が関門海峡を通過す帝場合には、強制水先制度によって水先人(パイロット)の乗船が義務づけられているからである。そして、その費用が極めて高額であることが、一万トンを超えないギリギリの大きさの船舶を多くしている。このようなギリギリの大きさの船を、私は「関門マックス」と呼んでいる。
  ちなみに、関門海峡に面する下関港、北九州港の入出港船の場合、強制水先は一万トンではなく、何故か三百トン以上と極めて厳しい。
  結果、二日に一度入る釜関フェリーにも割高な水先人の乗船が義務づけられている。港に不慣れな船に水先案内が必要なのは理解できるのだが。
  ・・どこか変だと思いませんか。
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22.相対評価
  結婚を考える部下への私のアドバイスは一つ。彼女の父親が、彼よりも遊び人なら問題なく、彼よりも真面目なら苦労するぞ・・と言うことにしている。何故なら、女性は自分の亭主を評価する時、比較対象を最も身近な父親に求めるからである。お酒を飲んで遅く帰っても、パパよりマシと済まされるか否かは、実に彼女の父親の日頃の行いにかかっている。
  よって、娘の幸せを望む父親は無理にも不良であらねばならない。それは、結婚生活で何が起きても、ママの苦労に比べたら私は幸せ・・と娘が思えるようにすることに他ならないからである。
  このように何かを評価する時、人は大抵、身近なモノと比較する。
  下関港の場合、よく比較されるのが対岸の北九州港である。
  例えば、唐戸と門司を結ぶ関門連絡船。門司の旅客ターミナルは随分立派だが、唐戸の方はみすぼらしいプレハブづくり。何とかせよと指摘される。そして、門司レトロの賑わいと比べて、唐戸周辺のウォーター・フロンを立派にせよと多くの方々からハッパをかけられる。このような市民の声に応えて、下関でも新水族館「海響館」がオープンし、新唐戸市場やフィッシャーマンズ・ワーフ、そしてアルカポートの整備が着々と進めらている。
  特に、港湾で整備済みの新水族館周辺の水際は優れた海峡景観を眺望出来る素晴らしい場所に仕上がっている。
  関門橋、関門海峡を航行する数多くの船、そして、関門海峡の潮流。もし、これらを映画のセットよろしくゼロから用意すれば莫大な費用がかかる。その莫大な費用を想像するだけで贅沢な気持ちになれる。
  対岸の門司レトロの明かりは、下関市民にとっての良き夜景である。北九州市民の支払う電気代で下関が楽しませてもらっている以上、下関でも水辺を整備し、北九州市の方々へ夜景の恩返しをするのは当然であろう。
  門司レトロに負けるなという数多くの声は、数多くの下関市民が門司レトロを訪れているということに他ならない。
  切磋琢磨しながら互いにエールを交換している関門の両市、両港である。この際、市民の方々には対岸との比較ではなく、山奥の町と比較しながら海峡を楽しむことをお薦めしたい。
  これが、下関市民であることの幸せを実感する秘訣である。
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23.たまの贅沢
  江戸時代、月の稼ぎに匹敵するほど高価な初鰹を庶民が競って求めたという。
  ここに粋な江戸っ子の、人生の楽しみ方の極意がある。たまの贅沢だからこそ贅沢が楽しめるのである。もし、日々同じような贅沢をしていたのでは、それは贅沢ではなく単なるマンネリであり、楽しみではなく苦痛になってしまう。
  下関名物のふくも、味わう季節が限られ、しかも高価である故に地元でも滅多に食べられない。だからこそ、たまの贅沢として、ふくが珍重されるのである。
  鯨はもっと分かりやすい。かつて高級肉といえば牛肉であって、鯨は庶民の食べ物であった。私も学校給食で鯨肉をよく食べたが、特段有り難みを感じた記憶はない。ところが、捕鯨禁止で鯨肉が稀少品となって鯨グルメが出現する。実に、捕鯨禁止を主張する環境保護団体が皮肉にも鯨を食べる楽しみを高めてくれているのである。
  このように考えると、船乗りは、江戸っ子にも負けない粋な職業である。何しろ、航海中は船に閉じこめられ、楽しみの少ない生活を強いられるのである。
  長い航海を終えて港に入り、陸地を足で感じるだけでも幸せな気持ちになれるはずである。そして、陸に上がれば家族の待つ家があり、素敵な彼女の待つ夜の華街がある。
  しかも、船に乗っている間は、お金を使う機会が無いので、陸に上がると膨れた財布の紐が緩くなる。結果、たまに入る港で真の贅沢を大いに楽しむことが出来る。これが船乗り稼業の醍醐味であり、港町の賑わいの本質である。確かに、調査捕鯨や自衛艦が寄港した夜は、豊前田も大入り満員。港町下関は大繁盛となる。
  山地が関門海峡に迫り、国際航路である海峡に向かって埋立地を拡張することが出来なかった下関港は、港と街の賑わいが近接融合しているということでも日本有数の港湾である。そして、特に豊前田に近い細江の停泊水域は、歩いて繁華街に行けるということで船員に人気のスポットと聞く。このお陰で細江には多くの停泊船があり、下関港の賑わいとなっている。
  このような下関港の特性を活かし、停泊地の近くに船員さんの楽しめる場所を整備することも、港町下関の活性化には有効であろう。
  「サンズイ」 に「巷」を付けて「港」成す・・の心である。
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24.親に感謝
  宮本武蔵の「宮本」と佐々木小次郎の「次郎」が「卓」を挟んだ「宮本卓次郎」。名前の故か麻雀は下手の横好き・・と、まず関係の方々に名前を覚えて貰おうと、着任して一ヶ月ばかり冒頭のような自己紹介を続けた。
  巌流島を擁する下関港である。この自己紹介で、小さな笑いを得つつ、大抵の方に一度で名前を覚えてもらえた。今あることを見越していたのか、それとも単なる偶然か。いずれにせよ、下関市港湾局長むきの姓をゆずり、名を付けてくれた親に感謝である。
  宮本武蔵と同姓であるが故に、子供の頃から何かにつけて意識させられてきた。しかし、そんな私でも巌流島が下関にあることを知ったのは、恥ずかしながら運輸省に入省して三年目の春、下関に赴任した時である。
  当時、四建で割り当てられた独身寮が彦島弟子待の「弟子待寮」だった。弟子の伊織が待ったとされる地名の由来を聞いて、さっそく巌流島を見るために丘を登ったことを思い出す。
  巌流島の決闘は、壇ノ浦の合戦、ご維新といった史実とは異なり、どこまでが現実か不明である。しかし、吉川英治の「宮本武蔵」が宮本武蔵であるとの国民的了解がある以上、虚実はさておき下関の巌流島は「あの巌流島」なのである。
  元々の島の形が船に似ていることから「船島」と呼ばれ、佐々木巌流の死地として「巌流島」の異名を得たのである。そして、大正時代に三菱重工が船島に接して方形の自社埋立を行い、現在の巌流島(船島)がある。
  この巌流島を侵食から守り、更に、島の知名度を地域振興に役立てるのも港湾の仕事である。このため、巌流島では自然を模した石積み護岸や人工海浜などの整備を進めている。整備途上でも、かなり立派なものになっているので、市民の皆様には請う御期待。
  私の巌流島でのお勧めは、関門海峡に突出した島ならではの関門海峡の迫力ある大パノラマである。これにはメッセ夢タワーの高みから見下ろす眺望とは一味違う楽しみがある。また、島のタヌキは工事関係者に餌付けされ、人がいると餌を目当てに寄ってくる。
  個人的趣味として、島に露天風呂を置き、海峡目線でゆったりと海峡を通る船を眺めれば最高だと思うのだが
  ・・・「巌流島に露天風呂をつくろう会」賛同者募集中
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25.縁起担ぎ
  十三日の金曜日、仏滅、さんりんぼう。今日はとんでもない日である。
  何年か前、同じような日があり、某テレビ局が東京中の結婚式場を調べた。結果、式を挙げたのは一組だけ。そのカップルは、式場の費用が半額で済んだと喜んでいたが、その後について大いに気になるところである。
  十三日の金曜日は、キリストが十字架にかかった日として、キリスト教世界で災厄の日とされ、数字の十三も忌み嫌われている。このため、欧米へ海外旅行をすれば、飛行機の座席番号やホテルの階数は、十三をはずして、十二から十四に跳ぶのが目に付く。
  さて、日本ではどうか。国内線の飛行機は座席番号は十二番から十四番に跳んでいる。一方、JRには十三号車の十三番席が健在である。これを以って、航空会社はキリスト教系でJRは仏教系という訳でもない。
  ひょっとしたら、飛行機はボーイングのジャンボ機を筆頭に、欧米で生産されているのに対し、JRの車両は純国産だからかもしれない。或いは、地面を走るJRに対して、落ちたら大変な飛行機だからこそ縁起を担いでいるのかもしれない。
  いずれにせよ、クリスマスにデートし、神社で結婚式を挙げるカップルも、死んだらお寺にお世話になる。これが日本人の大らかさである。だからこそ、宗教、宗派とは別に一三日の金曜日を忌み嫌うことも受け入れられるのである。
  そして、十三日の金曜日がいかに日本普及を果たしたかは、下関港の関釜フェリー航路を見れば一目両全である。
  調べれば、フェリー釜関として就航している旧船には一等、二等に十三号客室があるが、新船「はまゆう」に十三号室は無い。
  つまり、少なくとも旧船でスタートした一九七〇年頃は気にしなかったが、「はまゆう」を投入した一九九八年には十三を避けるようになったでのある。
  なお、十三以外に、日本では末広がりの八が好まれ、逆に「死」や「苦」に通じる四と九の数字は嫌われる。縁起モノ、縁起の数字は何でもありなのである。
  ちなみに下関港での私の一番のお気に入りは薫蒸倉庫の利用料金・・・・一立方メートル当たり七七七円。
  昨年度、新しい施設に更新したが、この料金だけは変える気がしない。
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26.意外な連鎖
  軽くて、丈夫で錆びない金属・・チタン。アレルギーにもならないと、メガネフレーム、時計、ゴルフのクラブなど様々な商品となって世に溢れている。
  しかし、これらのチタン商品の歴史は浅い。何故なら、熱にも強いチタンは、ロケット・エンジンなどに必要な軍需材料であり、以前は値段も高かったからである。ところが、米国の軍事費削減などあり、チタンの民生転用が始った。つまり、軍縮でチタン商品が出回ったのである。
  表面的には何の関係も無いような事柄が、実は密接に関連しているということは案外多い。
  今は当たり前の宅急便、これはK社のサービスの固有名称で、N社ではペリカン便となる。いずれにせよ、小口貨物の宅配サービスの普及した頃、パソコンの分野では別のN社の98シリーズが世に出回り始めた。これらの事柄が期を一にすることも偶然ではない。
  小口、多量の貨物を預かり、これを迅速に各家庭に届けるという宅配サービス。これに必要な多量の伝票処理を人手に頼っていてはおぼつかない。パソコンの普及が手間のかかる宅配サービスも可能としたのである。
  同じく、情報化の進展は、税関や検疫など、港湾での国の機関の重要性を改めてクローズアップすることになった。
  何故なら、貿易書類の処理が遅かった頃は、書類処理のスピードが港湾のスピードを決定していた。しかし、近年の情報化が貿易書類の処理速度を急激に高めた。しかもコンテナ化が港湾荷役作業をスピードアップした。結果、検査など国の行政機関の人的な作業スピードが港湾のスピードを決定するようになったのである。
  下関港が誇る日本一のスピードは、日本一のCIQ(税関、入管、検疫)体制のお陰なのである。しかし、国の行革路線は国家公務員の一律削減を目指しており、CIQも例外ではない。
  何もしなければ、下関港のCIQ要員も削減され、港の競争力を失ってしまう。そうしないため、下関港はCIQの増員、体制強化を最重点の国への要望課題としている。
  最後に、市港湾局長として「金利が上がれば、下関港の貨物は増加する。よって、低金利の中で健闘する下関港の将来は極めて明るい。」と断言しよう。この理由は読者諸兄でお考えいただきたい。
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27.統計の妙
  少子高齢化により日本の人口は将来減少する。だから、下関市の人口も減少する・・という意見がある。経済的な推計の中で人口推計の確実度は高いので、日本の人口の将来予測は恐らくその通りになるだろう。
  でも、下関市についてはちょっと違う。何故なら、幸いにして下関市は人口二十五万人の市であるからである。つまり、日本の人口一億人が八千万人になるといっても数十万人の誤差はあるはずで、下関市の人口は、実に日本の人口推計の誤差の範囲でしかない。
  元来、関門地域で住環境は良好とされる下関市である。安くて便利で立派なマンションでも用意すれば、お隣の北九州から人を呼ぶことはそんなに難しいことだとは思わない。だから、日本の人口がどうなろうと、上手に対応すれば下関市の人口増加は可能である。
  そして、例えば北九州百万人の一パーセントの人口が下関市に移るだけで、下関市の人口は3〜4パーセントも増加する。分母が違うということなのである。
  港湾で貨物が増えたという場合、元が大きい港は増加量を強調し、元が小さい港は増加率を強調する。それは、港湾にとって貨物の増加が一番好ましいことであり、人に自慢したいことだからである。
  下関港の場合、私は貿易量より貿易額を強調し、増加率などより博多港、北九州港との対比で説明することにしている。何故なら、トン数で比べると石炭の一トンも金の一トンも同じ一トンである。工業原料の取り扱い少ない下関港はトン数だけでは過小評価される恐れがあるからである。加えて、多くの人の頭に都市規模の差があるので、下関港が博多港の七割の貿易額・・という方が驚きを呼び、印象に残るからである。
  また、港にとって入港する船の数も多いほど良い。それは港の賑わいそのものだからである。
  下関港は入出港船舶数でも日本有数の港である。何しろ、唐戸と門司レトロを結ぶ関門汽船、一日四十回以上往復するので一隻だけで年間約一万五千隻の入港船舶となる。そして、北九州港の入港船舶数にも、同数が数えられる。両港合わせて三万隻。関門両港を結ぶ一隻の船が、両港のランク・アップに多大な貢献をしてくれている。
  ちょと後ろめたい気もするが、これも港の統計の妙なのである。
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28.いざ海響館へ
  本年四月にオープンした新水族館「海響館」。休日には、入場待ちの行列が出来るほどの賑わい。
  鯨の背を摸した煉瓦調のモダンな建築の中に入り最上階へ上がると、外に展開する関門海峡の景色に重ねた関門海峡水槽がある。この工夫が、関門海峡の海の中を透かし見るような錯覚を与えてくれる。
  そして、水中散歩よろしく多数の魚が遊よくする水槽を貫くガラスのトンネルに入る。足下に見える魚よりも、前を歩く女性のハイヒールが気にかかる。ガラスの床が割れたら大変と、急ぎ足でトンネルを抜けると、その先には多種のフグを始めとする魚類展示。イルカ・ショーなどもあり、多彩な演出がなされている。海峡の魚の生態に釣りの戦略を練るも良し。マンボウの大きさに驚き、活きた天然トラフグの値踏みをするも良し。或いは、水槽に群がる人々の姿を楽しむも良し。
  出口に近づけば、関門海峡の壮大な景色を背景にシロナガスクジラの骨格標本が展示されている。その巨大な骨格を前にして、尾の身はこの辺・・と言う人もいるが、私は「白鯨」、「ピノキオ」といった物語を思い出す。
  原始、全ての生物は海で誕生し育まれた。人類は、進化の過程で陸に上がったが、遺伝子に刻み込まれた原始の記憶によって、故郷への郷愁にも似た感覚を海に感じるのであろう。だから、人は海を好み、海に癒される。東京辺りでは、「海に行こう」と言うのが女性を口説く際の定番で、最も効果的という。原始の故郷の威力である。水族館の魅力も究極すれば海が持つ原始の故郷の魅力である。
  子供たちは海の魅力を満喫し、若者は海の魅力を武器に彼女を口説く。そして、私のように仕事に疲れた単身赴任者は海の癒しを求めるのである。水族館が万人に親しまれる所以である。
  更に、海響館には関門海峡という下関市の魅力のエッセンスが加えられている。海響館周辺を散策するだけで行き交う船や関門橋を眺望できる。
  海側のレストランでは、ガラス越しに泳ぐイルカと、窓に広がる海峡景観のいずれを選ぼうか・・座る席にも迷ってしまう。
  指で数える程の釣り人しか見かけなかった海峡沿いが、今や多くの人々の笑顔で満ち溢れている。
  海響館は人ばかりか、地域までも癒し、元気にしてくれる。
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29.下関、下関・・・・
  出張先で「何処から」と問われ、「下関から」と答えると「九州からじゃぁ大変ですね・・」と言われたことがある。私も驚いたが、横で聞いていた我が江島市長は唖然とするばかりであった。
  たまたま話した相手の小学校時代の成績を推測しても仕方が無いが、よほど社会が苦手だったに違いない。何故なら、下関の全国的知名度は間違いなく群を抜いているはずだからである。
  地域の知名度がどこで決まるかは、新潟県と香川県との違いを比較すると分かり易い。
  両県とも赴任経験があるのだが、新潟県は有名なのに対し、香川県は何処?となってしまうという。
  そして、県名の知名度の差が、産地の県名表示を義務づけられた特産品の売り上げにまで影響する。これは大変と、当時の香川県は地元出身の松本明子嬢を使い、県のテレビ・コマーシャルまで行っていた。
  両県の差で、まず思い当たるのが県土面積の差である。実に香川県は全国で一番県土面積が小さい。かつては大阪府が一番小さく、香川県がブービーだったが、関西空港の広大な埋立地が大阪府に加わって、香川県がブービー・メーカーになってしまったのである。
  次に、県庁所在市は新潟県は新潟市と県市同名であるのに対し、香川県は高松市と地名が異なる。県市同名の新潟は、県市に関わらず新潟であり、倍は覚えられやすいはずである。更に、県市同名か否かが駅名や港湾名に波及する。
  新潟駅と高松駅。新潟港と高松港。新潟空港と高松空港。その差は歴然となる。
  また、全国区の特産品が「新潟こしひかり」と「讃岐うどん」。新潟は地名を冠するが、香川は昔の名前で出ています・・となる。要するに、同じ地名を連呼する方が有利ということなのであろう。
  このように考えると、本州西端、関門海峡に面する下関市は、分かり易い場所にあることは日本随一。加えて、新幹線の新下関駅もあれば、下関港もある。そしてフク、ウニ、クジラがある。これらが下関の強みである。
  地名を知らずに旅行する観光客はいない。あらゆる機会を通じて下関を連呼することが、知名度を高め、更なる地域興しにつながる。
  だから私は「関さば」を下関産と勘違いされても決して訂正はしない。
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30.港の華
  帆船「日本丸」が新水族館「海響館」のオープンを祝って、あるかぽーと下関の岸壁に寄港してくれた。全長百十メートル、三千トン弱の船体は、関門海峡を通過する貨物船などと比較すれば小ぶりであるが、その存在感は絶大である。帆船は、マストの数や帆の張り方でタイプがあり、「日本丸」は四本マスト・バーク型と呼ぶらしい。
  強風をおして行ったセイル・ドリル。女子を含む実習生百六名が、五十メートルを超えるマスト上作業を含め、全て人力で三十六枚の帆を張る。岸壁に係留してあるとはいえ、大自然の息吹を与えられた帆船が人々を圧倒する。風に膨らむ白い帆、そして白い船体は煉瓦調の海響館と見事なコントラストを描いて海峡に映える。(その時、私は少し離れたところから帆船を楽しんでいた。)
  集まった人々は皆、日本丸の美しさに魅了されたことだろう。近くで見ると、沢山のロープが張り巡らされ、決してスッキリとしている訳ではない。でも、美しく感じられるのである。その理由は、きっと、全てのロープ、全ての形が意味を持っているからだろう。
  つまり、帆船が風を受けて帆走するために必要な形、その意味で無駄なものや、不必要な装飾はほとんど無いからこそ美しいのである。一言で言えば機能美が帆船の美しさの本質であろう。
  加えて、帆船は風だけで大海を航海することが出来る。騒音もなく、排気ガスも出さずに自然の力だけで海を渡れるのである。そして誰もが、帆船によって数々の冒険や戦いが行われたことを知っている。帆船は海の歴史とロマンの結晶なのである。
  今日、港の賑わいを大切にしようと様々な工夫をするようになった。建築デザインに凝り、緑地にはモニュメントなども置くようになった。でも、どのような工夫も本物の帆船にはかなわない。
  だから、先代の「日本丸」、「海王丸」が退役する時には、全国の港湾が激しい誘致合戦を行った。結果、旧「日本丸」は横浜港に、旧「海王丸」は伏木富山港に、それぞれ引き取られ、展示されている。
  当然、現役「日本丸」にも全国の港から寄港要望が寄せられているらしい。
  モテモテの港の華「日本丸」は男前の港しか選んでくれない。「日本丸」が寄港してくれて、下関港も男前の仲間入りができたのである。
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31.風見鶏
  神戸生まれの私にとって、異人館はちょっと変わった家がある・・という程度。子供の時から見慣れた風景だった。
  ところが、NHKの朝ドラで「風見鶏」が放映され、神戸の異人館ブームが湧き起こる。時を合わせて、博覧会ブームの走りとも言える神戸のポートピア博が開催された。当初、市の担当者も苦戦覚悟だったと聞くが、結果は数十億円の大黒字。市財政への貢献だけでも大きいが、加えて市のイメージ・アップ効果や、地域経済への波及効果は想像するに余りある。
  ちょうど、オイルショック、ドルショックを乗り越え、今と比べれば経済も順風満帆であった。ドルが二百円台。まだ海外旅行は高値の華だった。山口百恵嬢の「いい日旅立ち」が流れ、OLの国内旅行が大流行する。アンノン族という言葉が生まれ、山口県では萩・津和野が人気のスポットであった。
  アンノン族は異人館ブームの神戸にも殺到した。当時、神戸の異人館は普通に使われている個人の住宅であったが、それを知らない東京から来たOLは、観光施設と勘違いして断りなく異人館に入ろうとしたらしい。小トラブルを経て、個人の住宅であった異人館を市が借り受け、公開の運びとなったようだ。
  それが現在の北野町辺りの異人館通りのきっかけとなる。
  異人館通りは、三ノ宮の歓楽街を北に少し外れたところにあり、子供が近づいてはいけない言われた薄暗いホテル街であった。
  しかし、薄暗いホテル街も明るいアンノン族には勝てない。アンノン族が闊歩することにより、旧来のホテル商売が出来なくなってしまったのである。結果、従来のホテルは駆逐され、あっという間にレディース・ホテルや喫茶店などが出現し、今ある異人館通りとなる。
  再開発、観光振興の希有な成功物語である。
  これは、時を得て港町特有の異国情緒と異人館という地域資産が有効に働いた結果であることは間違いない。しかし、更に重要なことは、人の流れが街を変えるということなのである。
  城下町、門前町、港町。どんな理由でも、人が集まれば町ができる。
  下関港の国際ターミナルに集まる二十万の旅客、そして海響館に集まる百万を超える人々が下関の町を変えてくれるだろう。
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32.ネタ枯れの時
  あの鹿島アントラーズは、港湾が生んだ・・と言ったら、大抵の方は驚かれるかもしれない。でも、これは間違いない事実なのでである。
  かつての茨城県鹿島灘沿岸地域は、何もない砂丘地帯で、東京から八十キロ程の距離であったにもかかわらず、利根川などがあったために交通の便も悪い未開地で、「不毛の大地」、「陸の孤島」と呼ばれていた。
  しかし、未開地は常に開発の候補地である。所得倍増計画がうたわれた昭和三十年代に、国と県が大規模な臨海工業地帯の開発計画を作り、ゼロからの港づくりが始った。
  何しろ、太平洋の荒波にさらされる砂丘地帯である。波を防ぐ防波堤を作るだけでも大変である。また、自然の砂浜海岸は、沖合いは深いが、海岸に近くなるほど浅くなるのが道理である。そのままでは、大型の船が陸地に近づくことが出来ない。
  そこで、延長三キロを超える大規模な防波堤を沖に伸ばしながら、陸地まで水路を掘る「掘込み港湾」の建設が昭和三十八年に着工された。それから僅か六年、昭和四十四年には、何もなかった砂丘地帯に横浜港の四倍とも言われる大港湾が出現する。そこに、石油コンビナート、鉄鋼コンビナートなどが次々に立地し、大規模な工業団地が形成された。これが、奇跡とまで言われた日本の高度経済成長の実相である。
  資源の無い島国日本では、工業原材料を輸入し、加工して製品を輸出するしかない。この加工貿易で、港に工場を置けば余計な輸送を無くすことができるということなのだ。臨海工業地帯の開発を通して港湾が日本の経済発展を支えていたのである。
  かくして「不毛の大地」は、鹿島港開発を契機として日本有数の工業基地となった。そこに立地した鉄鋼コンビナートの中核を担ったのが住友金属工業で、そのサッカーチームが現在のJリーグ鹿島アントラーズとなる。
  平成7年、旧鹿島町は、隣接する旧大野村と合併し、人口六万人の鹿嶋市となった。ここで「島」が「嶋」に変わってしまう。市になろうと思ったら、既に「佐賀県鹿島市」があったので、同じ市名はまかりならぬということらしい。きっと、喜んだのは巨人ファンだけだろう。
  港の特性、役割、そして歴史。全てにおいて下関港とは対極にある港の物語である。
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33.言葉の輸入
  明治の人々はローマ字教育を受けていなかったので、外国語を聞いたままに受け入れた。例えば、小麦粉はアメリカから輸入したのでメリケン粉と呼ぶ。薄いコーヒー「アメリカン」より、「メリケン」の方が本来の発音に近いと感じるのは私だけだろうか。
  メリケン粉の場合は意味も通じているが、不十分な言葉のやり取りは、時として勘違いにつながる。
  例えばミシン。恐らく、商品の名前を聞かれた外国人は「ソーイング・マシーン」と答えたのであろう。その後の部分が一人歩きをして「ミシン(機械)」となったのである。これもまた「メリケン」と同じく、「マシーン」より「ミシン」の方が本来の発音に近いような気がするから不思議である。
  極めつけは「ブリキ」である。オランダ語の「ブリク」語源説が有力だが、煉瓦説の方が楽しい。
  明治時代、煉瓦は未だ国内では生産しておらず、海外から輸入していた。その煉瓦を包装していたのが鉄板に錫を塗ったブリキである。確かに、煉瓦のように重いものは丈夫な鉄板で包むのが一番。荷崩れも無く、また、濡れることも無い。しかし、鉄板のままでは潮風で錆びてしまう。そこで鉄板に錫を塗ったブリキを使ったのである。
  当然、日本人が初めてブリキを目にするのが輸入した煉瓦の包装。それを、日本人が「これは何?」と聞いた。すると聞かれた外国人は包装の中身を聞かれたものと勘違いし「ブリック(煉瓦)」と答えた。以来、日本人は錫を塗った鉄板をブリキと呼ぶようになったという。・・これが煉瓦説である。
  明治から海外に開かれた港の数は限られる。そして、旧英国領事館の煉瓦は全て英国から運ばれたと聞く。更に、御維新を成し、明治政府の中核を担った長州の影響力は東京山の手の言葉にまで及ぶ。・・とすれば、下関が煉瓦説の舞台となったとしても不思議ではないような気がする。
  いずれにせよ、インターネットも無い時代、港湾は唯一の海外への窓口であり、国内に向けた異国文化の情報発信基地だった。そこでメリケンやミシンなどの様々な言葉が港から全国に広まったのである。
  さて今日、間違いない下関港国際ターミナル発の言葉。担ぎ屋さんを指す「ポッタリさん」。平成の外来語として全国制覇を狙おうか。
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34.ラッキー・カレー
  唐戸にHPなるカレーのチェーン店がある。そこで、六百円のカレーを五倍の辛さ、大盛りご飯で注文する。すると、それぞれに割り増し料金が付いて、七百四十円となる。そして、支払いの段には消費税が付くので丁度七百七十七円になる。レジで見ていると金額表示に七が並ぶ快感。何か良いことがありそうな気になるから不思議である。普段なら捨てるレシートを大切に財布に収めて「いざ運試し」と出陣する。
  ・・我が休日の一場面である。
  子供が喜ぶメニューの筆頭となったカレー。日本の食文化に完全に浸透したが、これは和風カレーであり、本場モノとはかなり違う。それは、日本にカレーが紹介されたのが海軍食で、海軍経験者が全国にカレーを広めたことが大きいという。きっと、最初に食した味が、その人の味の原点となるからであろう。
  私自身、インド本国を旅した経験が無いので、ホントの本場カレーを知らないが、その近くのスリランカへは出張したことがある。紅茶でお馴染み、かつてのセイロンである。そこで食べたカレーは辛かった。否、「痛かった。」と言う方が正確である。カレーが触れるだけで唇がタラコになり、それを意地で食べたら翌日は腹痛に悩まされた。この痛い経験を経て、私は日本人には和風カレーが一番と納得している。
  そして、和風カレーには、もう一つの一番がある。それは、家庭料理の中で国産食材の使用率が高いということである。カレーの場合、スパイスは確かに輸入品であり、肉と玉ねぎも怪しい。しかし、それ以外の食材は国産品で足りる。
  これに対して、純和風と考えられている「うどん」の原料小麦は全て輸入品である。あの伝統の「讃岐うどん」ですら、ASW(オーストラリアン・スタンダード・ホワイト)が最高とされている。
  そば粉も大抵は輸入品。あんころ餅の小豆も、豆腐、納豆、味噌、醤油の原料大豆も大抵は輸入品。マグロの大トロは世界中から飛行機に乗って運ばれている。焼き鳥にいたっては串に刺すまで海外で済ましている。
  「日本の食を支える下関港・・」と、まとめたいところだが、食料事務所さんや検疫所さんにお世話になってる下関港である。
  ・・今夜はカレーで食の自給率を高めよう!
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35.憧れの関門連絡船
  列島国日本を鉄道で結ぼうとすれば、列車は必ず海を渡らなければならない。このため、橋やトンネルで結ばれる以前は船で列車を運んでいた。青函、宇高、関門の鉄道連絡船である。
  これらのうち、関門鉄道連絡船が最も早く鉄道トンネルに置き換わる。距離が短かったことに加え、戦時の物資輸送ルート確保という絶対的な要請があったからだろう。
  次に、洞爺丸事故(昭和二十九年)、紫雲丸事故(昭和三十年)を契機に、青函トンネルと本四連絡橋のプロジェクトが胎動し、その完成をもって鉄道連絡船は歴史を閉じる。
  橋やトンネルで列島を結んだ原動力が、戦時の要請や悲惨な海難事故であったことは感慨深い。
  さて、鉄道連絡船で結ばれた函館、高松、門司の港は、北海道、四国、九州の各地域で最も本州に近い場所となり、地域の鉄道網の起点となった。
  例えば、廃止して久しい関門鉄道連絡船。かつての下関駅は旧山陽ホテルに名残を残す程度だが、門司港駅は起点駅として健在である。
  起点駅だから域内各地への路線が収斂する。そして、起点駅だから階段が無い。何故なら起点駅だけが線路を越えずに別のホームに移動できる櫛形構造になっているからだ。
  更に、鉄道連絡船はフェリーのように列車を運んだので港湾と駅が一体になっていた。だから、同じ港町でも博多駅と比べて、門司港駅は海に断然近い。駅と海との近接性も鉄道連絡船の名残なのである。
  鉄道連絡船の港では、揺れる船と陸に固定された線路の間で列車を行き来させなければならない。このため、船の凹凸に合わせた造船ドックのような岸壁に船が突っ込むようにして、船の位置を固定した。それでも船が揺れるので、船と線路の間を緩い梯子のようなレールで結ぶ。緩い梯子だから、船の揺れはネジレで吸収できる。でも、梯子の幅が変わらないので脱線しないという訳だ。
  港の施設と船の両方を旧国鉄が持っていたから出来たことだが、航路両端の二つの港と船が一体となって優れた海陸一貫輸送システムを実現した好例が鉄道連絡船なのだ。
  関釜フェリー航路をもっと便利にしよう・・と、下関港は釜山港との定期協議を開始した。
  その心、ご理解いただけたであろうか。
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36.紫煙の先
  人に詫びを言わせる一番の方法は煙草を勧めることである。煙草を差し出し、「どうぞ」と言えば、ほとんどの人は「吸いません。」と答えてくれる。
  それほど喫煙者は少数派である。そして、少数派だから世間から冷たくされる。
  煙草を吸えば、地方税を払い、更に国鉄赤字の清算にも協力することになる。よって、喫煙者は地方公務員の鑑(かがみ)、JRの神様・・と思うのだが、そのどちらからも大切にされているとは思えない。
  市役所の執務室は禁煙とされ、喫煙者は小さな喫煙場所に行って、ひっそりと煙草を吸うしかない。その姿は、心なし背を丸めているように見えるから不思議だ。
  JRにしても、ホームの端の不便なところに喫煙コーナーを置くだけ。そして、ほとんどの路線に喫煙車両が無い。
  でも私は、市財政へ貢献することが市職員の当然の義務と信じ、少数派として疎外され、冷遇されても、身体の健康を賭して煙草を吸い続けている。
  それなのに執務室は禁煙。仕方なく市役所八階のエレベーター・ホールにある灰皿を囲むことになる。そして、紫煙の先に唐戸周辺を眺望するのを日課としている。
  そこで毎日、同じ風景を見ていると妙なことに気づく。唐戸周辺の高台が、どれも同じ高さに見えるのである。
  理由は恐らく、高台の上層に堅い地層が分布しており、その部分だけが雨による浸食を免れた結果ではないだろうか。
  堅い地層部分が傘の役目を果たす現象は、北米のグランド・キャニオンが有名だし、日本では源平合戦ゆかりの屋島にも見られる。つまり、屋島と命名されたゆえんの屋根型の地形も、上層の細長い岩盤層が下層の地盤を侵食から守った結果という。
  理由はさておき、唐戸周辺の同じような高さの高台。しかも、その高さは十階建てのビルほどしかない。・・とすれば、平地に高さを揃えたビルを連ね、その屋上を歩道でつなげば、坂の上り下り無しに水平に移動することが可能になるのではないか。
  山を削り、その土砂で埋立地を作ろうと考えるのが普通の港湾技術者なのだが、空中回廊を夢想する辺り、きっと私は環境派なのである。
  ただし、このアイデア。煙草仲間も相手にしてくれない。紫煙の時は孤独が一番ということか。
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