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港町下関考

“港町下関考”は「みなと山口新聞」で平成12年1月からスタートした連載です

No.1〜No.18|No.19〜No.36|No.37〜No.54|No.55〜No.72|No.73〜No.88完
37.三方三海 38.カモン関門 39.楽観論の勧め
40.港湾進化論 41.大臣の町 42.貧乏性
43.確率論的都市論 44.志士の年表 45.出不精の言い訳
46.祝・二周年 47.釣り人にご注意 48.ゴジラVSガメラ
49.N分の1 50.一日二十四時間 51.野良猫のルーツ
52.公務員らしさ 53.流されて 54.関門フロント
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37.三方三海
  今春、オープンした海響館と唐戸市場。市民の期待に応えて大盛況である。
  お陰で、閑散としていた唐戸の渡船場に人が溢れ、門司港レトロ地区との連絡船の乗客数は七割増、また年々減少気味だったゆめタワーの客数まで三割増の勢いである。「人々の賑わい」、「長蛇の列」といった目に見える成果によって、市民の方々も事業の意義を改めて納得され、地域発展の可能性に自信を深めたことだろう。正に、「論より証拠」である。
  さて、海響館の目玉の関門海峡水槽。瀬戸内海、関門海峡、日本海の三つの水槽に分かれ、それぞれの海域の特徴ある環境を再現展示している。
  瀬戸内海は波が小さいが干満の差は二〜三メートル。日本海は冬季の厳しい風浪があるが、干満の差は小さい。この日本海と瀬戸内海の干満差の違いが関門海峡の潮流を生む。そして、海域毎に生息する魚類も異なる。三方海に囲まれる下関。その三方の海は同じではないということなのだ。
  海の特性に応じて変化するのは魚類の生態ばかりではない。港も海の特性に応じて形を変える。何故なら、海に展開する港の形は、海の特性に適応したものでなければならないからだ。
  波静かな瀬戸内海。波静かだから大きな防波堤を必要としない。波静かだから、細かい砂も流されず、砂浜や干潟に恵まれている。そこで沖を掘り、沿岸を埋立てて港を造る。瀬戸内海の港は埋立地が基本になるのである。
  一方、冬季風浪の厳しい日本海。何よりも冬季風浪を防ぐことが大切。このため、長大な防波堤を建設し、その内側に港が形づくられる。
  そして、潮流と国際航路に特徴づけられる関門海峡。潮流を変化させてはならず、海峡を通過する船舶との関係で船の入出港も制限を受ける。結果、海峡に沿った薄皮のような港になる。
  当たり前と言えば、当たり前。下関港の長府地区は瀬戸内海、本港地区は関門海峡、そして沖合人工島は日本海。同じ下関港でも、地区毎に港の形が異なるのである。
  象徴的なのは、港に一つが常識の干満の値。下関港では設計に使う干満の値が地区毎に違っている。
  こんな港は、日本中探しても、関門海峡に面する北九州港と下関港だけ。
  故に、日本一の関門港となるのである。
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38.カモン関門
  中学校で英語を習い始め、RとLの発音を覚えようと舌を出したり丸めたりした経験を誰もがお持ちのはず。何しろ、日本語は「ラリルレロ」。RとLの区別無しに過ごしてきたのだから仕方が無い。とかく外国語は難しいが、特に日本語に無い発音は大変である。
  これと同じように、外国の人々にとっても、日本語の発音は難しいようだ。そして、そのことが問題となるのが名前、地名といった固有名詞の類である。何故なら、固有名詞だけは訳語を当てる訳にはいかないからだ。
  例えば、私が米国人と話す場面を想像してもらうと分かりやすい。そこで、私が先方に合わせて英語で会話をしたとする。でも、彼は私をミスター・ミヤモトと呼ばなければならず、富士山をマウント・フジと呼ばなければならない。
  つまり、固有名詞である「ミヤモト」や「フジ」は、英会話の中でも発音しなければ鎚らない。
  これが固有名詞の宿命である。だから、名前や地名は、外国の人々に読まれ、発音されることを考えなければならない。
  そこで、日本の加藤さん。ローマ史に名を残す護民官の大カトーと同じ。だから、「カトー」は、欧米でも発音し易い名前となる。ブルース・リー出演のテレビドラマ「グリーン・ホーネット」。リーが「ミスター・カトー」と呼ばれていたのも納得できる。
  一方、私の「ミヤモト」。決して、その通りに発音してもらえない。これで国際化に取り残されては申し訳ないと、長男は努と名づけた。「トム」と呼ばれることを期待したのである。当然、次男は治とするつもりだったが、結局、徹と名づけた。私は、いい加減な父親なのである。
  さて、そこで「関門」。FM局の名にあるように英語の「COME ON」に近い音だ。だから、外国の人々にも発音し易いに違いない。
  しかも、関門海峡は、かの四国艦隊砲撃の歴史の通り、古くから国際海上交通の要衝だった。このお陰で、恐らくアフリカの船長さんの持つ古い海図にも関門の地名は記載されているはず。
  発音の国際性、更に世界中の海図や地図への記載といった意味で「関門」は日本屈指の国際的地名なのである。
  地域の財産とも言えるこのブランド。世界を相手にするのなら、もっと上手に使いたい。
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39.楽観論の勧め
  日々、同じようなことをしているはずなのに、少し前を振り返って世の様変わりを痛感することがある。
  例えば、子供の頃はバナナが高価で、病気にでもならなければ食べさせてもらえなかった・・という話。同世代の仲間には通じるが、若い方々には不思議に聞こえるらしい。それが今や一番安価な果物となった。
  速く動いても、動く方向が定まらなければ、結局元居た場所に戻ってしまう。しかし、わずかな動きでも常に同じ方向を向いていれば、確実に元居た場所から離れていく。つまり、速さより方向が重要なのである。
  世の中がどちらに向かっているのか。これを「トレンド」と呼ぶ。そのトレンドが風となり、様々に連鎖して桶屋の儲けに波及する。
  例えば、従来の代表的トレンドの円高。東京や大阪のOLが萩、津和野を闊歩した二十年前、一ドルは二百円台だった。その後、一ドルが百円台になって、彼女らは香港やシンガポールで海外ブランドを買いあさるようになる。そして、国内各地の観光衰退が始る。
  一方、国内製造業は円高によって、生産拠点を海外に移す。結果、港湾では原材料の輸入が減りコンテナによる中間品、製品の貿易が急増する。また、生産拠点が海外移転すると、今まで工場があった国内の土地が遊休化する。そこで新たな土地活用を考えなければならない。そして、そのような土地は、大抵かつての臨海地帯開発で造成した港湾の埋立地。
  だから、テーマパークは港湾に位置するのである。東京ディズニーランド、ハウステンボス、スペースワールド、大阪のUSJ。どれも海沿いにあるはずである。
  そして、従来からの観光地は、さらにダメージを受けることになる。従来からの観光地の衰退は、実は、円高がダブルで影響していたのである。・・とすれば、円高のトレンドが終わった今、地域の観光は今が底。これから良くなるしかない。
  昨今の「不景気」を心配される向きもあるが、あまり気にすることはない。何故なら、変動するから「景気」であり、「トレンド」ではないからである。
  だから、観光都市・下関の将来は、極めて明るいのである。
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40.港湾進化論
  辞書で「港湾」を引くと「港のこと」。そこで「港」を引くと「港湾のこと」と書いてある・・アレレである。「港湾」の説明は難しいということなのだ。
  そこで、明治の港湾書「築港」を読むと、港湾は「天然の地形或いは人工の工作物によって防護される静穏な水域」と定義されている。
  当時は陸運が未発達で、水運が唯一の物流手段だったからだ。港湾では大型船が沖合いに停泊し、そこで艀(はしけ)や小船に荷を積み替えて、水路、内陸へ輸送した。主要な都市には水路、運河が張巡らされ、大阪、新潟などは「水の都」と呼ばれていた。荷役作業や交易活動が水域で行われていたのである。
  その後、鉄道網の整備が進む。内陸輸送が水運から陸運に移行して、港湾では船の貨物を陸揚げし、鉄道やトラックへ荷を積みかえるようになる。これを「沖荷役」から「接岸荷役」への移行という。ここに来て、港湾は「海陸交通の結節点」と定義されるようになる。
  更に時を経て、昭和の高度経済成長期を迎える。資源に乏しい島国日本では、原材料を輸入し、製品を輸出する「加工貿易」を行うしかない。そこで、港湾に工場を置けば、原材料と製品の輸送の手間を省くことができる。このため、港湾に埋立地を造成して、そこに工場群が立地する「臨海工業地帯」の開発が進められた。これにより、港湾は「物流と産業の場」と定義を変える。
  そして、日本は経済大国となる。しかし、豊かになってみると、子供の頃に親しんだ海岸は工場群に覆われ、肥大化した都市から出る廃棄物の処理も必要になった。
  一方、旧来からの港湾は大型化した船舶に対応できず、物流機能を沖合いに展開するようになる。結果、旧来の港湾のウォーター・フロント開発や、港湾での廃棄物受け入れが重視されるようになる。そして、港湾は「物流、産業、生活の場」と定義を拡大する。
  下関港を見渡せば、長府地区は産業の場、唐戸、あるかぽーとは生活の場、そして岬之町や沖合人工島は物流の場・・となる。
  防波堤も造れば、商業施設や水族館の用地も提供する。この港湾の多機能性が港湾を分かり難いものにしているのだ。
  でも、その分かり難さ・・時代の要請に敏感に対応して、時と共に定義までも変えてきた港湾の宿命であり、勲章であると私は考えている。
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41.大臣の町
  電車に乗った時など、嫌でも聞こえるご婦人方の会話。「うちの子は出来が悪くって・・」とか。大抵は、自分の何かを下げる話で口火が切られる。でも、そこで「はい、そうですね・・」と応える馬鹿はいない。下げて出されたものを上げて返すのがルールなのだ。
  そんな会話にかぎって騒音が大きくなっても、騒音に負けない大声で話が続く。特に、出張帰りで疲れている時、関門トンネルに入っても続く会話は最悪である。
  そこで、不愉快は不健康の元と、最近は耳栓を持ち歩くようにしている。このお陰で、移動中は一人沈黙の世界を楽しむことが出来る。そして、声さえ聞こえなければ、賑やかに会話するご婦人方が、海響館の熱帯魚のように優雅に見えるから不思議だ。
  何れにせよ、よくある会話にも人々の本質を垣間見ることが出来る。そう、誰にも自尊心がある・・ということなのだ。そして、その延長線の上にお国自慢があるような気がする。
  源平合戦、御維新といった歴史的イベントやフク、ウニ、クジラといった下関のお国自慢は全国区のレベルである。が、全国各地のお国自慢が全てそのレベルとは限らない。でも、どの地域でも、お国自慢を大切にしている。
  それは、お国自慢が主観的なものであり、人が自尊心無くして生きていけないように、お国自慢も必要なのであろう。
  ・・とすれば、お国自慢は多くある程良いはずだ。実際、お国自慢を列挙する「秋田音頭」の名物は下関のフク、ウニ、クジラより数が多い。
  きっと下関では、従来からのお国自慢の存在が大き過ぎて、他地域から見れば凄い事も、お国自慢に数えてもらえないのである。
  例えば、長府の埋立地。地名を冠する長府製作所は地名より会社名の方が全国的には有名。BS工場は、世界の大型タイヤの七割を製造している。だから、アクション映画でビルのようなトラックが出れば、そのタイヤは下関長府産。神戸製鋼のアルミは、かつてゼロ戦となって真珠湾を攻撃し、今日では「のぞみ」となって人々を運んでいる。
  そして、その地名。初代国土交通大臣の姓を冠する「扇町」は全国に二個所しかない。これを縁に、是非、大臣に御来関いただこう。これで自慢がまた増える。
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42.貧乏性
  明治生まれの祖母の口癖は「もったいない」だった。その言葉で育った私は、どうしても消費的な生活に馴染めない。
  例えば、洋服は肘が光り、袖が擦り切れるまで着てしまう。それが、よほど哀れに見えたのだろう。飲み屋のママさんから洋服をプレゼントして上げようと言われたこともある。それは丁重にお断りしたが、以来、人前で着る服だけは少し早めに捨てるようになった。
  机の上に溜まる書類も、その内必要になるのでは・・と思うと捨てられない。結果、机の上は書類の山盛り。
  部屋の中の雑物も同じ。つまらないモノを溜め込んでしまう。さすがに、寝る場所が無くなりそうになると、少しは整理をする気になる。生存への本能的欲求は後天的な貧乏性に勝るということなのだ。
  さて、このような私の性格。個人としては珍しいかもしれないが、社会全体では似た話があるから面白い。
  例えば、韓国のお墓。一人々々に小山のようなお墓を造るという。これが続くと、韓国全土がお墓ばかりになって、現世に生きる者の行き場が無くなってしまう。そこで、韓国政府は日本のような納骨を推奨していると聞く。それでも、人々は先祖を大切にするために小山を築いているらしい。きっと、まだ土地が残っているのだろう。
  似た話は下関にもある。例えば、歴史的建築物。保存活動も個別には美談だが、それを続けると新しい建物の場所が無くなるかもしれない。
  また、様々なモニュメント。どれも港湾に置くことになる。
  何故なら、下関のモニュメントは海峡にゆかりのものが多く、そうでないものでも、置くとなれば景色の良い場所、つまり海峡沿いが一番となるからである。
  最近でも、神戸震災復興の「希望の灯り」をあるかぽーとに置き、山本譲二さんの「関門海峡」の歌碑を新唐戸市場の海側に置いた。次は「志士の杜」。高杉晋作の像も港湾に置くことになりそうだ。
  関係者が心を込め、資金を集めて設置するモニュメントは、それぞれに素晴らしい。だから、それを置く場所に選ばれることは名誉の極み。
  ただ、これを続けると、将来、港湾がモニュメントで埋め尽くされてしまうのではないかと、私は密かに心配している。
  だから、私は沖合い人工島の建設を急ぐのである。
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43.確率論的都市論
  東京街で知り合いに出会えば奇跡。でも、下関では必ず誰かに出会う。
  この違いは、明解。人口が違うということなのだ。つまり、東京であれ、下関であれ、人にとっての知り合いの数は大差ない。ところが、すれ違う人の中に知り合いがいる確率は、人口が分母に来るので、段違いとなるのである。
  例えば、二百人の知り合いがいるとして、五百人とすれ違ったとする。すると、二十五万人の下関では、大まかに計算して四割の確立で知り合いに出会うことになる。が、人口一千万人の東京では一パーセントの確率にしかならない。
  厳密には、非遭遇確率を計算するべきだが、それは本旨ではない。要するに人口が少なくなるほど、知り合いに出会う確率は高くなる・・ということなのだ。このことは、二人しか住んでいない離れ小島の生活を想像すれば、容易に理解できるはず。何しろ島で出会うのは常に一人。必ず知り合いに出会うのだ。
  さて、このような確立の視点は、商品にもあてはまる。つまり、誰でも買う商品なら、人口が少なくても商売になるが、変人しか買わない特殊な商品は、人口の多い都会でしか商売にならない。
  例えば、年間で一万人に一人しか買わない特殊な商品を売る場合を考えてみよう。東京では年に千人の客が期待できるが、下関では年に二十五人の客しか期待できない。よって、東京でなら商売が成り立つが、下関では難しい・・となる。
  だから、誰もが買う食品や日用雑貨の店は全国何処にでもあるが、特殊な趣味の店は大都市に限られるのである。
  人口が多くなるほど、知り合いに出会う確率が低くなり、その分、多様なサービスや商品に出会う確率が高くなる。顔を指すのを嫌い、特殊な商品を求めては肩へ行く下関人が多いのも当然と分かる。
  でも、この消費の流出を諦めてはいけない。対抗策は簡単。下関で近隣の大都市にもない特殊な商品、サービスを提供すれば良いのである。
  北九州、博多、釜山、そして県内を合わせたら、下関の周辺人口は一千万人といっても過言ではない。その人々が他で得られない特別な商品やサービスなら、下関でも商売は成り立つ。
  これも確率論的考察の結果なのだ。
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44.志士の年表
  時を百五十年ばかりさかのぼる。一八五四年、寛永六年にペリーが浦賀に来航する。江戸時代、鎖国の平安を謳歌していた日本が、列強の開国圧力によって激震する。その時、山口県萩市には十五歳の高杉晋作がいた。
  四年後、晋作十九歳。久坂玄瑞に誘われ松下村塾に入門する。
  翌年七月、二十歳の晋作は文学修行の為、江戸へ上る。同年九月、安政の大獄が始まる。尊王攘夷運動に危機感を抱いた幕府の思想弾圧である。恩師、吉田松陰も、翌年五月に江戸送り、十月には処刑される。
  晋作二十二歳。江戸では桜田門外の変。晋作は藩の軍艦教授所に入学。
  晋作二十四歳。藩命により長崎から上海へ視察。そして、長崎から京都を経て江戸に。イギリス公使館を焼き討ちする。
  晋作二十五歳。五月に長州藩は、馬関でアメリカ商船を砲撃。六月、晋作は藩命により馬関防禦を一任され、奇兵隊を組織する。そして九月、晋作は奇兵隊総督となる。
  晋作二十六歳。七月の京都では蛤門の変。八月、四国連合艦隊が長州を襲う。その講話談判・・攘夷は幕命ゆえ、賠償も幕府に・・とした晋作の交渉は痛快。見事というしかない。
  ただ、蛤門の変、四国連合艦隊との交戦が長州藩の弱体化、幕府支持の俗論派の台頭に連鎖する。これを避けて、晋作は一時九州へ亡命する。が、十二月十五日、遊撃隊、力士隊に武力挙兵を図る。これが功山寺挙兵である。十六日、馬関の萩本藩会所を占領し、海上制圧のため三田尻の軍艦三艇を奪う。
  翌年一月。二十七歳の晋作は、赤間関で再挙兵。大田絵堂の合戦に勝利し、山縣らと山口に入る。二月には藩論を倒幕で統一する。
  晋作二十八歳。二月には坂本竜馬による薩長同盟が成立。六月、幕府の第二次長州征伐が始まる。この時、晋作は海軍総督として戦闘を指揮。三月に長崎で単独購入した軍艦丙寅丸の活躍もあって、八月小倉城炎上。長州軍の圧勝で終わる。
  九月、病に倒れ、翌年四月。二十九歳で晋作は世を去り、同年十月、大政奉還を迎える。
  こうして見ると、晋作の足跡だけで御維新の流れが簡明に整理できる。同時に、御維新に海が深く関わっていると感じるのは私の身びいきか。
  連載四十四回目の本稿。ゆえに志士に敬意を表したのである。
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45.出不精の言い訳
  下関で知っている場所は・・と問われ、「唐戸、豊前田、マルハ通り」と答える。すると聞いた相手が妙な顔をする。そして私は、ささやかな露悪趣味を満足させるのだ。
  実際のところ、私の行動範囲は極めて限られている。それは、自らの出不精もあるが、何より私がクルマを持っていないのが一番の理由だ。
  何しろ下関は、クルマ無しで出かけるには不便な場所が多いのである。ところが、ちょっとした用事にタクシーでは大袈裟だし、バスでは億劫。結局、家でごろ寝か、直近の唐戸で用を済ますことになってしまう。
  クルマ無しでは不便・・というのは、何も下関だけのことではない。地方都市はどこも同じである。大都市では地下鉄など公共交通機関が整備されている。が、人口が少なくなると、公共交通機関の利用が少なくなり、採算が合わなくなるのである。その採算の目安は、地下鉄が人口百万人、モノレールなどの新交通は人口五十万人、それ以下だったらバスしかない・・と言われている。
  でもよく考えれば、下関も、元々はクルマ無しで不自由無く暮らせたはず。それが、自動車の普及・・いわゆるモータリゼーションの進展で、クルマを使うことを前提とした街に変貌したのではないか。しかも、多くの人々が自家用車を使うから、余計にバスを使わない。すると、バスの数を減らさなければならず、それが不便だからと、また自家用車を使う。結果、クルマを持たない私のような少数派は不便至極の生活を強いられる。
  また、昔からの商店街もクルマで来るには不便という理由でお客が減り、元気が無くなる。だから、中心市街地活性化の核に駐車場の整備が挙げられるのである。
  高齢化が進む中、下関のように坂の多い街ではお年寄りの移動を確保する自動車の効用は大きい。しかし、地域経済の視点では、自動車にかける費用は全て市外に出ていく支出である。何故なら、自動車もガソリンも下関産ではないからだ。しかも、その金額。例えば、年間に一世帯当たり四十万円使うとして十万世帯で年間四百億円。・・恐らく下関港の物流部門が市外から稼ぐ金額をも上回る。
  このように試算すると、クルマの無い自分のためではなく、純粋に地域経済に貢献するため、港湾で海沿いにモノレールでも造ろうか・・と真剣に考えてしまうのである。
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46.祝・二周年
  下関市役所勤めを命じられたのが一昨年の六月二十三日。その日、旧運輸省で退職を承認され、翌二十四日、江島市長から採用の辞令をいただいた。これが国家公務員が地方自治体で働く場合の退職出向の手続きである。
  この退職出向。二度目の経験だが、辞職から採用までの一日は不安が残る。そして何故か江川投手の空白の一日を思い出す。
  一昨年は下関港の開港百周年の年。記念事業で間もなく寄港する船が護衛艦「金剛」だった。着任早々の初仕事として、これに反対の方々と面談したことを思い出す。
  そして、秋。下関港は台風十八号による高潮被害に見舞われる。旧第四港湾建設局が関門海峡に設置した潮位観測所のメーターをも振り切った空前の高潮である。通常の業務に、急遽の災害復旧業務。このため、我が港湾局のメンバーは、その後、休日返上の日々を過ごすことになる。
  私の着任一年目。反対派に出迎えられ、甚大な高潮被害に遭遇する。運とか星とか相性というものがあるとすれば、その頃は運も悪く、星も悪く、下関港との相性も悪いのではないか・・と落ち込むことばかりであった。
  しかし、翌年。二十一世紀を迎えるに当たり、運が大きく好転する。
  下関港の貨物、旅客とも空前の実績を上げることになる。貿易額に至っては、博多港の七割に達し、正に下関港の大繁盛、大躍進である。
  また、沖合人工島についての地元との協力合意、長府地区岸壁整備についての関係漁協の合意・・と長年の懸案が次々と解決する。
  さらに、関釜フェリー航路の三十周年記念事業では、日韓両国政府の港湾局長をお招きすることが出来た。これが本年の釜山港との定期協議設置に結びつくのである。
  そして二十一世紀。「ヨンケン」と親しまれてきた運輸省第四港湾建設局は、省庁再編で国土交通省九州地方整備局港湾空港部と名称を新たにした。
  関門海峡沿いには、新水族館、新唐戸市場がオープンし、予想を越える大盛況。先の市議会では、懸案の「あるかぽーと開発」の進め方に一定の見通しが立った。
  先週末で、下関に単身赴任し、現職に就いてちょうど二年。新たな懸案が噴出。まだ異動の気配はない。三年目に突入し、当分は現職で頑張ろう・・この投稿を続けるために。
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47.釣り人に御注意
  仕事柄か、単なるロマンティストか。私もたまには岸壁や防波堤で独り海峡を眺めたいと思うことがある。でも、変人あるいは自殺志願と人から勘違いされるのではないか・・と勝手に心配してしまう。そこで、海を眺める時には釣り竿を持ち歩くことにしている。釣り竿を持てば、釣れなくても単なる釣り人。これで誰からも怪しまれなくて済む。
  似たようなことは、ご婦人方のウォーキングにもある。独りでセッセと歩けばダイエット中と噂されるかもしれない。が、犬を連れていれば単なる犬の散歩。ダイエットのために犬を飼うようになったという方・・多数の読者の中には、きっといらっしゃるはず。
  これらは、何事も納得したい・・という人の心理作用の投影だろう。つまり、他人の行動に理由が見つからないと不安になる。それが嫌だから、本当の理由はどうあれ、自分が納得しやすい理由に飛びつく。釣り人が海に向かうのは当たり前。犬の散歩も当たり前。これで納得、一安心・・となるのだ。
  このように、当たり前の風景にとけ込んで目立たないでいること。これを迷彩、或いはカモフラージュという。
  例えば色彩。背景に色を合わせると目立たない。闇夜のカラス、雪ウサギである。変幻自在のカメレオンは別格。魚は背が黒く腹が白い。お陰で、上から見下ろされても、下から見上げられても共に目立たない。
  戦争映画で兵士が顔にペイントを施すのは、顔の本来の陰影パターンを崩し、顔を顔と認識しないようにしているのだ。同じくヘルメットにつけるボロ布。キャベツのようになるのでキャベッジ・ハットと呼ぶ。輪郭を乱すことによってヘルメットと認識されないようにする工夫である。
  人の認識の仕組みを逆手にとって、色でごまかし、輪郭でごまかす。
  この迷彩の手法を上手に使っているのが、長府にある中国電力の煙突である。空色がかった灰色の濃淡で塗装してあるので、くもり空に溶け込んで見える。変に目立つよりも趣味が良いと感じるのは私だけだろうか。
  この迷彩技術。下関自慢の旧英国領事館や秋田商会の周辺の建物に適用したらどうだろう。肝心の建物だけを目立たせる一番の方法だと思うのだが。
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48.ゴジラvsガメラ
  米国のビキニ環礁水爆実験で付近を操業中の第五福竜丸船員が被爆し、日本中が騒然とする一九五四年。水爆実験の放射能で誕生した「ゴジラ」が、東宝から衝撃的デビューを果たす。
  このゴジラの名称。ゴリラと呼ばれた豪傑スタッフがクジラの竜田揚げに豪快に食いついている姿から発想したと聞く。下関あってのゴジラだったのだ。
  デビュー時、六十メートルだった身長は、シリーズを重ねる毎に成長し、最新の映画では、身長百メートル、体重六万トンと巨大化する。
  一方、ゴジラと人気を二分するガメラは、ゴジラに遅れること十一年。一九六五年、大映の「大怪獣ガメラ」でデビューする。その後、ゴジラ同様シリーズ化され、特撮技術の進歩とともに機能アップする。
  しかし、アトランティスで生息し、子供好き・・というガメラの設定は、シリアスなゴジラの設定とは一線を画す。その極みはガメラの身長、体重である。甲羅長六十メートルに対して体重八十トンは軽すぎるのである。甲羅長が六十メートルなら、幅四十メートル、厚み二十メートル程度が妥当なところだろう。また、亀である以上、体比重は概ね水に等しいはず。そうすると、体重四〜五万トンは欲しくなる。
  そして、これら二大怪獣の共通点は、共に関門海峡に出現していないことである。それはきっと、両怪獣とも海峡を通る必要が無いからだろう。
  つまり、船や自動車にとって、海峡は交通の要衝であり、必ず通らなければならない場所である。が、水陸両用のゴジラ、空まで飛べるガメラである。両怪獣には海峡地形が意味を成さないのだ。また、水深十メートル余の関門海峡。ゴジラが水に足首まで入れて歩いても絵にならない。しかも、壊すものが少なすぎる。ガメラはどうか、浅すぎるから二足歩行となるのでゴジラと同じ。無理して泳げばタグと水先案内が必要になる(?)
  二大怪獣の出現個所を調べると圧倒的に大都市が多い。それは、悲鳴を上げる多くの人々、そして壊して絵になる沢山の建物があるからだ。
  賑わいと立派な建築物群。怪獣の来襲は繁栄する都市の証と言える。
  それなら、あるかぽーと開発を進めよう。賑わう海峡にゴジラとガメラがやって来る。
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49.N分の一
  私が運輸省に入ったばかりの頃、職場の大先輩に「若い子の店に行こう」と誘われ、喜んでついて行くと、そこは「お母さんの店」。膨らませていた期待が一度に萎んだことを思い出す。大先輩の「若い子」は、私にとっては「お母さん」だったのだ。
  言葉は、話し手の立場に立って理解しなければならない・・との教訓である。
  先輩はいつまでも先輩。互いに生きている限り、年齢の差は不変である。が、歳の違いの感覚は徐々に小さくなる。子供の頃は一つ年上でも「お兄さん」感覚だが、中年にもなると一つ二つの歳の差は無いに等しい「同世代」感覚になる。そして、人生の大先輩方を見ていると、十歳や二十歳程度の歳の差は無いに等しいといった具合である。
  このことは、「N歳の人は、一年をN分の一に感じる。」という「N分の一理論」で説明できる。つまり、一歳の頃の一年を一と感じるなら、十歳の一年は十分の一、四十歳の一年は四十分の一になるという。
  確かに、最近は一年間がアッという間に過ぎていく。日々仕事に追われているから・・などと思うより、N分の一理論の方が明快である。そして、一年の時間感覚がN分の一なら、年齢差の感覚もN分の一が当てはまる。
  だから、年齢差が不変でも、歳の違いの感覚は歳を重ねる毎に小さくなる。
  この理論を演繹すると更に面白いことに気づく。
  例えば、二十歳と四十歳の二人の年齢差。二十歳の人から四十歳の人を見れば、歳の差は二十分の二十。一方、四十歳の方から見れば、四十分の二十。一と二分の一で値が異なるのだ。二十歳は歳が倍と感じ、四十歳は自分の歳の半分しか離れていないと感じる。
  つまり、同じ年齢の差でも、年長者と若い人とで距離感が違うということなのだ。
  職場の若手が距離を置いているのでは・・と感じている御同輩も、これで御納得いただけたことだろう。
  さて、下関での出会いの中で感銘を受けた大先輩の話。太平洋戦争に出征し、雷撃による輸送船の沈没と漂流を三度経験して生還したという。そして今でも、その大先輩の「若い子」は本当に若いらしい。
  関門海峡が練り上げた下関人の凄みに、高齢化社会を乗り切る極意が秘められている。
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50.一日二十四時間
  江戸時代の時の数え方は、月を基本とした陰暦(旧暦)だった。そして時刻も日の出と日の入りで区分される昼夜を、それぞれ六等分し、十二支で呼ぶ不定時法。
  それが御維新を経て、明治五年にグレゴリオ暦(太陽暦)が採用される。時刻も機械時計の普及とともに一日二十四時間とする定時法が定着する。これは欧米への追従ということであろうし、明治の近代工業化が集団での始業、終業を求めた結果とも考えられる。
  さて、一年三百六十五日を一二ヶ月とするのは太陽と月の動きがあるからなんとなく理解出来るが、一日を二四時間に区切る理由が良く分からない。
  十三世紀のパリで作られた世界初の機械式時計の文字盤はローマ数字が用いられており、今もそのデザインが踏襲されていると聞く。が、それで一日が二十四時間と決まったとも思えない。
  ひょっとして、文字盤に、六十度、三十度と目盛りを入れるのはコンパス一つで簡単に出来るから・・という単純な理由なのかもしれない。
  確かに、一ダースは十二個、英国の貨幣単位で一シリングは十二ペンス。ものの数え方で十二を一かたまりに扱うことは当たり前だったようだ。そして、十二には大変便利なことがある。つまり、十二は二、三、四、六と多くの数で割り切れるのである。
  同様に、一日が二十四時間だから一日の時間を様々に等分できる。このお陰でフェリーや連絡船のような二港間を結ぶシャトル便の定時スケジュールの設定が容易に行える。例えば、往復四時間であれば一日六便、六時間であれば日四便といった具合である。
  そして、長距離フェリーでは、往復が一日であれば一隻で一日一便のサービスとなり、往復二日では、二隻投入して一日一便にするのである。
  要するに、定時運行を行うサービス周期の時間数は二十四の因数或いは倍数に限られる。
  関釜フェリーの場合、下関〜釜山間を約八時間で航行するが、夜間航行、昼間荷役を基本にしてサービス周期は一日。二隻で一日一便となっている。昼夜を問わなければ、同じサービスを一隻でできるかもしれないが、「夜寝て、昼働く」という人の自然な生活パターンに合致しているところが優れものなのである。
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51.野良猫のルーツ
  岸壁に停泊する船・・典型的な港の風景である。その風景のある部分が、少し昔と比べて大きく変わったことにお気づきの方はいるだろうか。
  同じ絵を並べて違いを探すクイズのようなものであるが、答は係留ロープである。
  少なくとも私が子供の頃には、船と岸壁を結ぶロープには必ずお皿のようなものが付いていた。が、最近ではロープのお皿は滅多に見ない。
  ロープのお皿。正式には「ラット・ガード」と呼ぶ。平たく言えばネズミ返しである。ネズミがロープを伝わって船に忍び込むことを防ぐためにロープにお皿を付けていたのだ。それはネズミに付いたノミから人に伝染するペストなど、ネズミが運ぶ疫病防止が目的だったのである。
  そこで話は五千年をさかのぼる。古代エジプトで猫が家畜化され、神の使いとして大切にされていた。やがて、家畜猫は世界に広がり、可愛がられていた。が、中世ヨーロッパ。キリスト教の暗黒時代に猫たちの受難が始まる。魔女裁判が横行し、猫は悪魔だと手当たり次第に焼かれてしまうのだ。
  結果、猫のいなくなった街にはネズミが大量発生。そして、ペストが大流行。それが魔女の仕業だと、また猫が殺される。この悪循環で、ヨーロッパの人口の四分の一がペストの犠牲となったという。ペストは、十四世紀から十八世紀までヨーロッパで猛威をふるう。そして、疫病研究の進展やネズミを捕る猫の復権とともにペストが沈静化する。日本の野良猫たちも、実は明治のペストの流行で、対策として大量輸入されたお助け猫の末裔だったのである。
  ヨーロッパでペストが猛威をふるっていた頃は、大航海時代に合致する。病人を乗せていなくてもネズミが船に乗って疫病を広めてしまったのだ。
  今日、まだ世界には様々な疫病がある。それが日本に入らないように、外国から入る船は必ず検疫検査を受ける。ネズミ駆除の証明などあれば検疫所が無線で確認。立ち入り検査が必要な場合には、沖で検査を行うことになる。その場所を検疫錨地と呼び、下関港では六連沖が指定されている。
  港が世界に開かれた門戸だからこそ、外国からの疫病に対する守りも厳重になっているのだ。
  港の風景の変化。ロープのお皿が無くなったのは、疫病の心配が少ない日本の安心の証明だったのである。
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52.公務員らしさ
  私は、よく人から「役人らしくない」と言われる。とかく公務員が批判され、官僚的という言葉にマイナスの響きがある昨今、ひょっとして誉められているのか・・と思うこともあるが、同時に、今の仕事に向いていないのでは・・と心配になってしまう。
  そんな私でも、長い役人生活で、その雰囲気を出す方法くらいは心得ている。
  例えば、「下関港の沖合人工島を建設する」と言わずに、「下関港において沖合人工島建設を推進する」と言えば良い。「建設する」という動詞を、「建設」という名詞にし、「推進する」という動詞を加えるのである。
  もっと官僚風にしようとすれば、「推進する」も名詞にして、その後に「図る」という動詞を付け加えれば良い。「下関港沖合人工島建設の推進を図る」といった具合である。そして、それが出来なかった時の言い訳まで考えると、更に「・・図るべく努力する」と言う。この不自然な言葉の響きが正に官僚風なのである。
  動詞を体言化する官僚風の言葉には、それなりの理由がある。つまり、「下関港沖合人工島建設」が、固有の事業の名称として、全ての関係者に共通の意味を持つのだ。それで、主体の市は「推進する」と言い、関係者は「促進する」と言い、ごく一部の人は「反対する」と言えば互いに話が通じることになる。
  さらに官僚風に話そうと思えば、漢字を不自然に音読みすれば良い。例えば「定める」を「さだめる」と読まずに「ていめる」と読む。すると完璧な官僚風言葉が完成する。
  絶対に間違ってはいけない法文。二人の人間が何度も読み合わせする。その時、普通に読んでは漢字の送り仮名の間違いに気づかない。だから、変でも漢字の音読みをするのが霞ヶ関の慣例なのだ。それが癖になって、普段の会話にも出てしまう。音読み癖は、法律に携わった官僚の仕事癖だったのである。
  平成三年に定(テイ)めた下関港港湾計画に基(キ)づき、国際物流ニーズの高度化に対応するとともに、地域経済の活性化に資するため、地域住民を始めとする幅広い関係者の理解と協力を得て、海域環境の保全に配慮しつつ下関港沖合人工島建設の推進を図るべく最大限の努力をしている私でした。
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53.流されて
  近代までヨーロッパでは川の源流に泉があり、その泉の水が川の流れとなると考えられていたようだ。
  その頃、日本では・・五月雨を集めてはやし最上川。芭蕉は、雨水が川の流れになることを知っていた。
  これをもって日本人が優秀・・と短絡してはいけない。例えばライン川。ヨーロッパの大平原を流れる大河では、雨の降る場所と川下とが離れているので雨と川の増水との関連を直感することが出来なかった。が、山地が迫る急峻地形の日本列島。雨が降れば、見る間に川が増水する。だから、日本人は雨水が川に集まることを嫌でも認識させられた。
  川に集まった水は高きから低きに流れ、最後は海にたどり着く。この水の流れが山を削り、土砂を海に運ぶ。この土砂の供給があって砂浜が維持されている。
  大地を洗い、川から海へ流れる水の流れ。洗われる大地はきれいに掃除されるが、海は大地の汚れにおかされる。倒木や枯葉など、自然の営みの中で生じるゴミ。心無い人が河原に捨てたゴミ。これらが梅雨の長雨で増水した川の流れに乗って海に流れ込む。
  海に流れ込んだゴミは、浮遊するものもあれば、海底に沈むものもある。そして微生物によって分解され、海草などの養分になったり、魚の餌となるものもある。が、プラスティックなど分解し難いゴミは長く海に残る。
  特に、海に浮遊するゴミは厄介だ。海岸を汚すばかりか、船の航行の邪魔までする。
  ロープがスクリューに絡みついたり、ゴミが船の取水口に詰まったりすると、船は推進力を失ってしまう。もし、海峡を航行中に船が推進力を失ったら大事故間違い無し。  そうならないよう、国土交通省(旧四建)が海域で浮遊ゴミの回収を行っていることは案外知られていない。
  関門海峡周辺の海域では「がんりゅう」と命名された最新鋭の特殊船が従事している。この船、浮遊するゴミの回収はもちろんのこと、浮遊油の回収まで出来る優れものである。変わった形の赤い船だから、海峡を通る船に見慣れた下関人なら誰でもすぐに気付かれるはず。
  だが、こんな「がんりゅう」でも人の力にはかなわない。下関の全市民が路上のゴミを一つ拾うだけで、二十五万個のゴミが減るはずだから。
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54.関門フロント
  海と陸との大きな違い。それは、陸地であれば個人が所有することが出来るが、海は誰のものでもない・・ということである。民法では、誰のものでもないのは国のもの。だから、海は国の所有物ということになる。
  そして、海では漁業、船舶の航行、採掘や土砂採取など様々な活動が営まれている。また、浜辺での海水浴や釣りなど、海は市民のレクリエーション活動の場でもある。
  この国民共有の財産である海を人々が利用するために一番大切なこと。それは、海に接する陸地・・ウォーター・フロントを市民に開放することなのだ。これを専門家は「ウォーター・フロントへのパブリック・アクセスの確保」という。
  何しろ、人は魚と違って陸に棲む。だから、人は陸からしか海に近づけない。もし、海辺の土地を締め切ったら、誰も海に接することが出来なくなってしまう。そうならないように工夫するのも港湾の仕事である。
  このため、例えば唐戸の渡船場はボードウォークとし、防波堤の上も海辺の散策が出来るようにしている。また、あるかぽーと岸壁も岸壁の機能と散策する人々の安全を両立させるように、普通の岸壁には取り付けないチェーンの柵を取り付けている。このチェーン柵、実は横浜港の山下公園風になっていること、お気づきだったであろうか。
  豊かな海の恵み。多くの船が行き交う海上交通の要衝。そして東西に向きを変えながら流れる潮流。時に襲ってくる高潮。これらが関門海峡のウォーター・フロントを特徴づけている。
  豊かな海の恵みが釣り人を誘う。行き交う船が景観を織り成し、響く霧笛が情緒を呼ぶ。潮流があるので人に対する安全対策が重要性を帯び、高潮への備えも考えなければならない。このような海峡沿いを「関門フロント」と呼ぶのはいかがだろうか。
  そして、下関の関門フロントには、もう一つ大きな特徴がある。それは、陽光さす関門フロント・・ということである。
  家を建てるなら景色と日当たりの良い場所が一番。海峡だから景色は最高。海峡だから日当たりが悪くなる心配も無い。関門フロントは宅地としても超一等地だったのである。そうだ・・関門フロントを宅地として売り込もう。そうすれば、魅力ある住まいを求めて人が集まり、下関がもっと元気になるだろう。
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